昭和五十六年五月三日朝の御理解


「御」の字。


 教典を開かせて頂いたらここの所を頂くのです。御理解とある「御」という字を頂きます。まあそこから御理解を頂こうと思います。
 甘木の初代は全ての、全ての物に御の字をつけずにはおれぬ程の有り難い御神徳を受けられた。それこそ庭の散葉、小枝一つにでも神様の御物として尊び敬い頂かれた。御の字をつけさえすればよいという事ではない。御物と神様の御物という実感がそう言わずにはまあそう尊ばずにはおれない所に甘木の信心があると思うんですよ。
 合楽では全ての事柄に御の字をつける。御事柄として頂く。それは例えて言うならば痛い事であろうが、痒い事であろうが、損になるような事であろうが、儲かりになろうが、無念残念と普通なら思うような事柄にすら御事柄として頂く時に、それがその事柄が生き生きと輝いてくる。その価値を発揮してくる。こんな事という頂き方からはおかげが生まれて来ない。その事柄を神様の御働きと実感するから御の字を付けずにはおれんのである。御事柄である。又難しい問題が起こりましたと言わずに、問題を問題にするような事がなく、その事を御事柄として、いわゆる合掌して受ける気になるという事。
 ですから合楽ではなら総ての事に御の字を付けさえすればいいなあと、御事柄としてまあ頂く事だけなら容易いけれども、御の字を付けずにはおれない体験から生まれてくる御の字である。忌まわしい事、嫌な事だと思うておった事でも、教えに従ってそれをいわゆる、成り行きをいよいよ尊ばせて頂く生き方で合掌して受けておったら、その事がこういうおかげにもなって来たという。信心をすれば一年一年有り難うなってくると仰せられる。その有り難うなってくる、有り難いというものがいよいよ深い広いものになってこなければならない。
 今日は御神前で御祈念中に小川宏という事を頂いた。テレビで小川宏ショウというのがあっていますねえ。なかなか名司会でもう随分長く続いておるんだそうですね。そのどういうこつだろうと思ったら、結局小川という事は小さい川、まあ云うならば、木の葉の下をくぐって来る一滴の云うなら滴が小川をなしておる。小川に落ちる、その小川が云うなら谷川に落ち大川に打ち出して、しかもその大川の水が大海に注ぐという事になるのです。 一滴の水ではあっても、それが大海というならばもう即ち大海の水なのである。
 昨日は福岡の川上さんが福岡から毎日日参となかなかもって出来る事じゃない。それをああして毎日日参をなさる、その行き戻りの電車の中又バスの中でそれこそ示現活動。此の頃はそれが有名になられて、いわゆる川上さんの話を聞くのが楽しみで一緒にバスに乗り込んで来られる人達が、云うなら川上さんファンが出来る程しである。結局日参のおかげを頂いて信心がいよいよ段々広くなり深くなりその有り難いという事が段々広くうなってきた。深くなって来た。
 昨日前の日の月次祭に御主人と二人で参っておられましたが、もう私は昨夜程穴があるならば入りたい程しの思いをした事はございませんでしたと。
 親先生のお話しを頂いておりましたら、金光様の御述懐のお言葉の中に、いわゆる「お礼の足りないお詫びばかり致して居ります」というその一言を聞いた時に、体全身を何かが走るような思いをしたと。頂き、いや器ですね。皆さんも頂かれたでしょう。お礼の足りないお詫びばかり致しております。そして三十年前の事からずうっと思わせて頂いたらおかげを受けておる事の多いのにただただ恐れ入るばかり。今日は改めて三十年間の云わば御例を申させて頂きますというて、改まって昨日お礼のお届けがありました。三十年間のまあ主だった。あれを思い、これを思いするだけでもおかげを受けて居る事の有り難さ。私はそれをお取り次ぎさせて頂きながら、信心が深うなり、信心が広うなる。信心はこの行き方で行けば一年一年有り難うなっていくんだなあと思いました。
 教祖様も初めにおかげを受けた事を忘れねば結構だというようなみ教えがありますが、それを改めて形で表してお礼を申させ、申さずにはおれない。それが御の字である。全ての事に、様々な事があったが、確かにそれがおかげになってきておる。確かに御の字を付けずにはおれない。
 昨日そういうお届けをさせて頂いて、又改めて思うのですけれども、信心させてもろうて一年一年有り難うなってくるという事はどういう事なんだろう。有り難い有り難いとこう言いながら、実際五年たち十年たちしてどれ程有り難くなっておるだろうか。有り難いというのを引っ繰り返したらどういう事になりますか。有り難くないという事。何が有り難くないかというと、不平不足を言わねばならない事。腹の立つことばっかり、どうしてこんなに、心がいらいらするだろうかというような安定しない生き方。結局は私は有り難いの反対というのは、不平不足だと思う。我情我欲だと思う。だから有り難くなるという事はね、我情我欲が取れてくるという事なんです、次第に。
 そこに本当に以前の私だったら随分腹が立った、立つことだろうと思う事でも、反対に御礼が言えれるようになった時に初めてその事を御事柄として頂くことになるのじゃないでしょうか。以前だったらこんな事があったら、いらいらいらいらしてどうにも仕様がなかった。居ても立ってもおれんような思いがしたであろうけれども、段々信心を頂くようにならせて頂いたら、心が平常心でおれる事は、まあ何と有り難い事か、いらいらしなければおれないその事柄がなくなるわけじゃない。けどもその事柄を御事柄として受けるからそういう事になるのじゃないでしょうか。神様の御働きとして頂くから、いらいらせんで済むようになり、腹が立たんで済むようになり、それを又引っ繰り返しますから有り難いという事になって、いよいよこれは広い深いものになってくる。いわゆる小川宏である段々広い広大なもの、おそらく宏というのは広大の広でしょう。そうですか、云うなら広大なものになってくる。それこそ、大海に打ち出してその水のように、それこそ大海のような信心が出来て来るようになるから、又鯨の住むようなおかげにもなってくる。有り難いというものはそのようにして、段々有り難いというものがエスカレートしていくというか、有り難うなってくる。兎に角有り難い有り難いで云うならば、世界に住まわせて頂くためにも、だからそこの精進がなされなければ、一切の事柄を御の字として受けずには居れないその実感がね、引っ繰り返すと心が広うなり豊かになり有り難うなる事になるのです。そういう、云うならば修行に取り組まないから十年経っても二十年経っても本当の有り難さにふれる事が出来ん。
 おかげを頂き有り難いけれども、それの反対の時にゃ有り難くないというような、いわゆるあれもおかげこれもおかげという、云うならば一人前の信者。教祖はあれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになると、真の信者じゃとおっしゃるです。だからあれもおかげこれもおかげ、あれという事は過去の事、本当にいやな事であった、忌まわしい事であったと思う事も、信心をするようになって何年後に分からせて頂いたら、あれは、あれもおかげであった、御神愛であっと分かる。これもという事は今踏んまえておる一つの難儀というか問題なんだ。これもあれもおかげであった、これもおかげであると分かるようになると真の信者じゃと。
 その真の信者を目指さなければ真のおかげにはなってこないし、真に有り難いという心も育っていかないという事になります。
 甘木では物一切に御物として大切に、それこそ大切にされました。私共もそれを見聞きして来ております。そしてあの大徳を受けられた。勿論御物ですから大切にしなければならんけれども、合楽ではとりわけ事柄を御事柄として頂くのです。そこから必ずや一年一年有り難うなってくるというおかげの世界、云うならば小さい一滴の水が小川に落ちて、それが広い広びろとした、広い広大な云うならば流れ、云わば大海にも打ち注ぐというようなおかげを頂く時に心が豊かに大きくなる。
 だから物にも、云うなら金にもそういう豊かな心の上に恵まれる。豊か、心が豊かになっておかげを頂いておりますと言うて、いつも金に不自由しとります、難儀な問題を抱えておりますというような事では、その貴方が自分の心が豊かと思うておるのは本当のものじゃない。本当な有り難いものじゃない。
 自分の心の中にいよいよ大きさ豊かさというものが、広大なものになっていく時に豊かな物の又は金の世界にも住む事が出来るのです。
 私は今日御理解の今日皆さんに聞いて頂いた御理解はこの合楽でいう全ての事に御の字をつけるというその内容について、ただ御の字をつけてさえおればよいというのではなくて、御の字をつけずにはおれない。本当にお礼の足りないお詫びばかりを致しておりますと一言の教えの中から、それを感じた時に全身全霊に本当におかげを受けて来ておる事の事実を思う時に改まってお礼の形をとらずにはおれないというようになってくる時に、三十年前の信心が大きく広く深く分かってくる事になる。
 有り難いというものに対して、深く広く分からせて頂くという事はおかげの世界が、又広く深く大きくなったという事になるのです。 どうぞ。